早起き30分一本勝負

目が覚めてから30分で記す驚天動地なブログ

面白くないって言ってるやつが分かってるみたいな糞みたいな風潮

遅ればせながら「キングオブコントの会」を観た。正直あまり自分にハマらなかったものもある。けれど、そのコントは面白くなかったわけではなくて、自分が面白さを理解できなかった、今日の自分の体調的に追いつかなかったというだけだと思うし、何を面白がらせようとしているか分かるけど今日はそれで笑う気分ではなかったというだけだと思っている。

でも、どうやら世間はそうでもないらしい。面白くないのはそれを披露した側にしか原因がないと思っているらしい。もちろん、披露した側に責任がないとは言わないし、出来るだけ多くの人に面白いと思わせる必要はあると思う。しかし、面白いかどうかは見る側の理解力というのが非常に重要になってくると思う。極端な例を出すとどれだけ面白い日本人の漫才も日本語が分からないザンビア人やウルグアイ人はクスリともしないはずだ。つまり、それの何が面白いのかを理解する力がない人には何をやっても面白いと思ってもらうことはできないのだ。このような人に合わせて面白いを作ると変顔やハプニング、落とし穴など独創性がない単純なものしかできないことになる。少しでも独自性を見せてしまうと独自性が分からない人は面白くないと言い出す。

逆に、何が面白いか理解する力が高い人には、どんな些細なポイントでもそれに気づいて面白がることができる。

決して、だから、コントに限らず映画や小説、音楽などあらゆる文化において観る側が必死に面白いところを探すべきだということを言いたいわけではない。

ただ、世間一般で面白いとされているものを面白くなかったということは、自分には世間一般で面白いとされているものの何が面白いか分からなかったという恥ずべきことを誇った顔でまるで何かに勝利したように発言するのは馬鹿ではないだろうか?という堤案をしてみたかった。

もし、自分が面白くなかったものに出会った時は、面白くなかったという記憶だけを片隅に留めておいて、その記憶が薄れたときに改めて、その作品を観てみることにしている。それは経験を積んだからなのか気分なのか、「あれ、面白いじゃん。」となることがある。できることなら全てを面白く感じた方が人生楽しいはず。

では、さいごにおもしろい話を、、、

近所に白い犬がいました。

あ、これは尾も白い話だった!!

これを面白くないと思ったらなら読んでいるあなた側に原因がある。