早起き30分一本勝負

目が覚めてから30分で記す驚天動地なブログ

贔屓!何故駄目?フォーシェルの巻

おはようございます。
お風呂や布団のなかが、暖かくて気持ちいいという感覚に冬を感じる今日この頃。

はてさて、今日は贔屓についてだ。
贔屓とは、自分の気に入った者に目を掛け力を添えて助けることというのが辞書的な意味だ。
そして、日本では、いや、世界でもこの贔屓はとても否定的なニュアンスが含まれている。じゃないとこんなに貝を書かせないだろう。

しかしながら、自分は贔屓の何が悪いのだろう。と思ってしまう。どうして、短い人生の中で、出来る数少ない人助けを気に入らない奴にする必要があるのか。はっきり言って時間の無駄としか思えない。
確かに、人の評価を一義的にして、縛られるのはよくないが、そうしていないのは昨日の記事を読んでくれるとわかるだろう。
そうしたなかで、下した自分なりの評価に従ってお気に入りを決めてその人達にいい思いをしてもらいたいということに、なんの罪があるのか?また、贔屓を否定的に捉える人達は、本当に人を贔屓していないのか。もし、そうだとしたら相当つまらない人間だと思わざるおえない。だって、自分の好き嫌いに問わず皆に手をさしのべる意思なし人間ということでしょ?それって気持ち悪くないですかね?

そして、おそらくもうひとつ考えられる批判としてその贔屓をする評価が世間とずれているのではないかというものだ。これに関しては、そもそも世間の評価というものが、自分は眉唾ものだと思っている。さらに言えば、世間と違うからこそ世間が見捨てた時に自分だけが贔屓をすれば、その人の能力を見捨てないことになり、自分の力がいかほどかは分からないがその人が、救われれば万々歳だと思う。

とにかく、人生は時間が短いのだ。
それなのに嫌いな人にかける時間はない。
極端に言うと、贔屓を否定する人は、自分が贔屓されないのを憂いて、贔屓される人を妬んでいるだけではないのかと思ってしまう。そんな遠吠えをしている暇があるなら、技術なりを上げて誰かに贔屓されるような人になるべきであろう。

そしたら、きっと誰かが評価してくれるし、評価出来るような人に自分はなりたいと何様という感じではあるが、思う。

でも、贔屓をすることで視界(4貝)を狭めるのは良くないことではある。へへへ。