早起き30分一本勝負

目が覚めてから30分で記す驚天動地なブログ

宗教って作り込み甘いよねの巻

おはようございます。
これが本当のおはようございますです。

さて、これから三日間は多分似たようなテーマが続きます。まあでも、そんなことを立ち上げたのを忘れて違う話をする可能性が無いわけでは無いのですが。

明日から、大阪へ帰省するのですが、その理由がいわゆる法事だ。誰のとかを話すと今日そちらの話をメインにしないといけなくなるので、伏せておく。

とにかく今日言いたいのは、宗教とくに仏教の作り込みの浅さが苦手だということだ。
基本的に自分は死後の世界を信じていない。仏教系の死後の世界が見える人もいれば、キリスト教系の人もいる。死後の世界というものが、世界共通なのだとしたら、ナチュラルボーンの!生まれつきの!死後の世界が見える人は、共通した宗教を信仰するようになるはずなのに、ある人は仏陀に、また、ある人はキリストに、アッラーにそれぞれ祈りをささげることがまず、何よりも違和感に感じるのは自分だけだろうか。

しかし、そもそも宗教を本気で死者のものだとも思っていない。生者の心をケアするための集団演劇で、ある人は自分の死への恐怖を和らげるために、またある人は、身内の死の悲しみを和らげるために使用するものだと自分は捉えているし、どうやら宗教を極めた人達は、それを理解して行動しているような気がする。
その前提で、いくならば、その集団演劇の設定は、2000年ぐらいあるのだから最も作り込んでおくべきだろう。自分が作り込みが荒いなと思う最たる例が墓参りである。よって自分は墓参りが嫌いだ。する意味が分からない。勘違いしないで欲しいのは、自分は死者へのリスペクトがないわけではないし、それを示すのが嫌だといっているわけではない。それをなぜ墓でしなきゃいけないんだということを言いたいのだ。
だって、墓にその人が眠ってるんだよ?とあなたは、自分にいうだろう。しかし、自分はその人が死んだときに言われたことの多くは、

「きっとあなたのそばにいてくれるいるよ。」だ。

いやいや!!これ!!おかしくないですか!!
じゃあ、墓にいるとされるその人とはなに?
そばにいるんなら周りを見回してありがとう。と毎日言うべきでしょう。それをサボって何を意味のない石に集合してありがとうだとかくだらないことを言ってワンワン泣いているのか。気味が悪くて本当に逃げ出したくなったことを今でも鮮明に思いだすほどだ。
これをいって、「いやいや、墓は携帯的な役割で、近くにいるけど対話出来るのは墓だけなんだよ」と言われたことがあるのだが、自分は墓の前にいたとて死んだ人の声を聞いたことがない。おそらく我が親族に聞いた人は一人もいないだろう。いたら大騒ぎしているはずだ。
はいはい分かってますよ、死者が私たちの声を聞くために行くのよでしょ???
だから、そばにいるんじゃないのか?じゃあいつもそばにいる死者は、自分たちをチャップリン無声映画のような感覚で見ているのだろうか。人間のほとんどの現象が、会話でなりたっているのを考えるとそれを見させられ続けるのは身内であれある意味地獄だ。
そういえば、天国と地獄ってなんだよ。いつもそばにいんのに天国にもいんのかよその人一体何人その人がいれば、この世界観はなりたつんだよ。
ミッキーマウスでも世界中のディズニーランドで、同時に登場することがないように気を使ってるのにこの様とは情けなくないのか宗教家さんは、是非とも構成を作り直して来週までに納得した形で、提出していただきたいものだ。