早起き30分一本勝負

目が覚めてから30分で記す驚天動地なブログ

伝統!価値観デストロイの巻

おはようございます。
すっきり起きすぎて気持ち悪い。
頭がさえさえだ。そんなことを書くと変にブログに期待されるかもしれないので、やっぱり頭グズグズということにしておこう。

伝統を守ることになんの意味があるのか。前任の人達の考えを尊重するためだとか文化を残すためだとか言われているが、その実こういうことをいっている人が伝統を崩壊へと導いているのではないか?
一つ一つ意見を取り上げていこう。
まず、前任の考えを主張することは、非常に保守的な考えである。そもそも、この考え方がよくないとできるかもしれないが、それではつまらないし、必ずしも保守的なことが悪いわけではない。
しかしだ。元来、伝統を形成した最初の人は、その時点での旧来の考えを打ち破り新しい伝統を形成したのではないだろうか?そう考えると伝統とは、守ることではなく壊すことによって常に考えを改めることこそが、そもそもの伝統を作った人達の意思であり、その人達の意思を尊重する必要があるのではないか。
ここで、出てくるのが「伝統を作ったのは私だが、そんなことは望んでない。」という年上だが、そんなものは伝統ではない。お前の考えの押し付けだ。高々五年くらいで伝統だなんだとかいうな。自分が人をコントロールしやすくするために作ったルールを伝統にするなど、それこそ日本の伝統に違反している。そんな自己主張が激しいやつは、もはや保守ではなく、過激だ。

続いて、文化を守るためという理由だ。
この理由は、納得する部分も多いのだが、その文化が素晴らしいものであれば、あるほど従来の価値を守りすぎるあまり、本来の価値を現代に残せていない。その伝統自体の価値は常に同じ位置にいるのだが、人間が作り上げた価値の総数が近年で急速なスピードで上がってきている現状がある。その中において価値の維持は、相対的に言えば価値の減少であり現代的な価値を付加していかなければ、生き残りなくなってくるのではないか。スーパー歌舞伎などの例がいい例なのかもしれない。スーパー人形浄瑠璃とかいって、アニメを人形浄瑠璃でやるのはどうだろう。あまりにも安易か。

このブログには、ルールがあるが伝統はない。
ルールは守った方がいいかもしれないが、人間が作り出した空虚な妄想に縛られるほど馬鹿なことはない。だから、このブログも、、、変えるところを探したが今のところないような気がするが、寝起きとか30分とかそういうところを変えるところにも続けるために仕方ないと思わないといけないときが来るのかもしれない。