早起き30分一本勝負

目が覚めてから30分で記す驚天動地なブログ

相編!佐夢レオンの巻

いやはや、昨日は寝るという概念が壊れていつを起きたかとするのには、哲学的思想を取り入れなければいけないほどに、ぶっ壊れな生活を送ってしまったために、あじゃぱーという事態を引き起こしてしまい毎日更新をするという約束を文字通り三日坊主にしてしまったわけです。

申し訳ねえです。

ただ、その分お話したいことがあるのですが、恐らく今日は今日で書きたいことが出来て、今日書きたかったことを書こうとしても時間が無くなるということになりそうな気もするのでとりあえず、今日書きたかったことを書いて、昨日書きたかったことを書いていくという構成にしていきたいと思う。

 

まず、映画「レオン」傑作なのは、言わずもがなだが、小さいときには、分からなかったことがたくさんあるし、これが大人の成長というものなのだろう。それに加えて、今後も10年後くらいに見直すことで新しい発見が生まれるのだろう。もし、このブログが10年も続くようなことがあれば、その時にレオンの素晴らしさについて書くことにして10年後の未来の自分に託したいと思う。

 

さあ、ということで一昨日観た映画「アイアムサム」について書いていきたい。

まず、大前提にいい映画だとは思う。さらに言えば、これから書くことは、作品への批判ではなく作品を踏み台として自分の偏見を皆に知らせるという酔狂なので、この作品を好きな人には許してもらいたい。

 

ハッキリと言おう。障碍者で泣かしてくる映画は好みではない。そもそも、障碍者という概念が好きではない。これは正しい表現ではないかもしれない。障碍者を扱う人間たちの議論が気に入らないといった方が正しいかもしれない。

まず、彼らをけなすものはもちろんよろしくないと思う。彼らのそれは、一種の個性だと言える。だから自分に危害を加えない限りは、目が悪かろうが、知能が小学生中学年程度だろうが関係ないし、出会ったことがないから分からないが、仲良くなれる可能性は、世に言う健常者と同じくらいには孕んでいると思っている。

その体で言うのだが、ならなぜ世間では、耳が聞こえないのにサッカーをするなんてすごい!というのか、知能が低いのに計算が出来るなんてすごい!とか言えるのかが分からない。それは一瞬彼らを褒めたたえているようで、彼らから上の目線で投げつけられた言葉で、犬が、お座りやおかわりを覚えたときと同じ褒め方であると言わざるを得ない。

彼らを、目が見えないという特性を持って生活している一般人として本当に平等に扱うのなら、彼らが目が見えないということに関することにボーナスポイントもハンデも加えずに、彼らを評価するべきだ。障碍者としてではなく、普通の人間として評価すべきだ。そこには色眼鏡は存在してはいけない。その結果、内面や能力値をみて適切に判断した結果彼らの方が優れているのなら社会に参加させる(という言い方も上からでいやだけど良い言い方が思いつかない)べきだと思う。そうでないなら、健常者が試験で落とされるのと同じように彼らも落とされるべきだ。

もし、それがいやだったら、善人ぶらずに内にある障碍者を見下しているという事実を認めるべきだ。「私たちは障碍者を平等に扱うために、会社に障碍者を雇った。」というのならば、それは平等ではなくただの優遇にすぎない。もしくは、自分の懐の広さをアピールするための道具として扱っているかのどちらかだ。

 

そういう風に観ると、「アイアムサム」では、サムが娘の親権(でいいのかな?)を施設が紹介した容姿先の家族と争うのだが、個人的には、これから育てられる娘がサムがいいって言ってるんだから、それは娘が「健常者」ではなく「障碍者といわれる特性を持つ人」を選んだのだからその時点で、サムの方が養子先の女性より優れているのだからそれでいいじゃんって思う。女性も作品の中で、あなたの方がいいって認めてるし、そうなるからいいんだけどね。

 

ということで、トータル腑に落ちる結果になったし、とてもいい映画でした。ただ、これで自分は泣かないぞ!という頑固が発揮される映画でしたね。

ただ、一つ泣きそうポイントとしては、サムの弁護士さんが、「あなただけじゃなくて、私も辛いのよ。」と障碍者という枠を取っ払って世の中皆上手くいかないし、苦労してると、サムのことを平等に一人の人間として向き合ったシーンは個人的にとてもいいなあと思った。

 

 

久しぶりに表アカウントを宣伝

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