おはようございます。
今日は、熱いです。夏です。東南アジアなのかというような雨と暑さが続きますね。
ちなみに室内の湿度は80パーセントを超えるとよくないらしいですよ。
さてさて昨日は、朝起きて映画観て、作業を少ししてから新宿に映画を観に行きました。『カセットテープダイアリー』。
○○ダイアリーだとモーターサイクルダイアリーが出てきてしまい既に2度書き直してたりしたりして。
まあ、内容はブルーススプリングスティーンの曲が一々いいという感想が残るだけで、歌を急に歌いだす系の映画が好きな方にはいいのかなという映画でした。映画は中身派、ストーリーを楽しみたい派なので普通でした。でも、自分で選んでみて違ったというのはずるいので批判はしない方がいいと思いますね。ええ。
このブログで何度も話した話を時間置いたしもう一度してみようかな。
といっても全く同じじゃないし今までのことをバージョンアップしたつもり。
自分の人間性を自分で評価するのはやめた方がいいということを思ったというお話。
例えば、自分は人見知りだとか、自分は陰キャだとかそういった評価は自分がするべきではない。もっと深く掘れば、自分は○○が嫌いだ、意見を変えない人間だ、芯がぶれない人間だとかそういったもののすべてを自分でするべきではない。
なぜなら、いざというときに変えれなくなるからだ。人見知りを脱却したいときに「でも私は人見知りだし」と思うとそれがつっかえて人に話に行けなくなる。自分で自分を評価することをやめれば話したいという自己の欲望に従って話しかけることができるようになる。これと同じで陰キャどうこうを自分で判断しなければ好きな時に好きなように自分を明るくふるまえる。自分で自分を評価することはただただ自分を縛るのと同義だ。
そしてもっといえば、自己評価は他者評価と異なっている。
というのは、割と言い尽くされてきているけれど、それ以上に他者それぞれでの自分に対する評価は違うのだろうと思う。
特に自分は、いつどこで出会ったかによって大分明るさだとか性格の評価が異なるだろう。それによく見るのが、明るくしている人にも本当は暗いんでしょとか言ったり、その逆に本当は明るいじゃんとか言ってその人を理解しているアピールをしてくる人もいるのだからそもそも他者評価というもの自体存在するかは怪しい。田中評、池田評みたいなものの個人的なその人の評は存在するのかもしれないが、大きくくくった他人評というものは存在しないような気がする。
結局何が言いたいかというと、自分の評価を自分でするくらいなら自分の好きなことをして他人にどう思われるかで判断してもらったほうがいいんじゃないかなって思ったよというお話。