早起き30分一本勝負

目が覚めてから30分で記す驚天動地なブログ

女性!軽視ヒーローの巻

おはようございます!

久しぶりに二日連続です!やったね!

 

さてさて、アベンジャーズシリーズの話の続きをしようかなとも思ったのですが、つい1年前に完結した映画シリーズについて引っ張り続けてお話するのも一体どうなんだということもありますわね。

 

ただ、ただ一つ気になるシーンがありまして、エンドゲームの終盤、スパイダーマンが、ある重要なもの(ネタばれ対策一応)を運んでいるところで敵に襲われそうになったところで、色々な作品にでてきた女ヒーローたちが助けるシーンがあったのですが、それがあまりにも象徴的に魅せようとしすぎて唯一エンドゲームで冷めたシーンでした。何も自分は、女性は強くないだとか女性軽視をしようというわけではないですしむしろ、男女関係なく活躍できるというか、男女としてみるのではなく個人としての能力として一人一人判断するべきだと思っています。だからこそ、このようなシーンで女性だけが露骨にフューチャーされるのが気持ち悪く感じるのです。

本当に男性と女性の区別がないのであれば、スパイダーマンを助ける一員にファルコンが混じっていてもいいわけです。それなのに、女性たちのみが得意気な顔でスパイダーマンを助けるシーンが自分は気持ち悪く感じるのです。

そもそも、「女性は○○」といわれることが嫌いな女性に限って、「○○に住む人」は、だとか「○○で働く人」は、といいうような区別をしたがるような気がするのは自分だけでしょうか。

結局のところ、普段から人をグループ分けして、固定概念に落とし込む作業ばっかりしている女性だから、おっと、女性だからではなく人だからでした。人だからそういった狭い了見で攻められることを嫌うし、大きな視野で人との関係を構築できないのではないかと思うわけです。

 

ただ、正直なことを言うと、区別を否定するわけではないというところもあって、全員ではない前提として、「男性」だからこその発想傾向や、特定の地域に住んでいたからこその行動傾向は事実としてあるわけで、最初のとっかかりとして人をそのように判断していくのはある程度仕方のないことなのかなとも同時に思うわけです。

しかし、アベンジャーズシリーズの女性ヒーローたちは、今までの作品を追ってきた自分たちにとっては、「女性」ではなく、「個人」として見れるようになるほどの愛着を持つことができるキャラクターであったわけです。それぞれ皆違った性格を持っています。それにも関わらず、最後の最後で、女性という一括りにして登場させることは返って彼女らの個人としての特性が消されたようでどこか悲しく感じるところでした。

以上がアベンジャーズ感想日記でした。

 

ちなみに自分は、クイル、ホークアイ、トニースタークが好きです。