早起き30分一本勝負

目が覚めてから30分で記す驚天動地なブログ

自分なりのあざとい。

最近、テレビ番組で『あざとい』をテーマにした番組が人気を博している。番組自体は、とても面白く過去の放送も含めて楽しく視聴しているのだが、一つだけ気になることがある。それは、「あざといってこういうことだっけ?」ということだ。その番組では、女性が(まれに男性の場合もあるが)、男性を落とすテクニックを紹介するのだが、これがどうも自分の『あざとい』論というものと異なるのだ。そもそも触れてこなかったが、『あざとくて何が悪いの?』というタイトル自体が『あざとい』論に反するのである。

大前提として、自分は自分が思うあざとい要素を持った人が好きだ。それは異性に限らず、同性においてもその傾向がある。では、自分が思うあざといとはなんなのか。それは、自然(風)に人を転がす感じ。言い換えれば、人を惹きつける感じ。ここで大事なのは、自然にという部分で、あざとさとは、自然さと同居させなけらばいけない。つまり、何が言いたいかというと、あざとい人がじぶんをあざといとみてめてしまった瞬間に彼、彼女らのあざと値は0となる。現在のあざと値の評価が70であれ84であれ100であれ、それらが自分が意図的にしていたと認めてしまった時点であざと値は0になってしまう。番組の作り上仕方ない部分もあるが、あざといことを認めるレギュラー陣と再現VTRにでてくる彼女らは、自分のあざとテクニックを披露してしまった時点でそれはあざといではなく計算高いとなってしまう。そうすると途端に自分はもやもやしてしまう。それは、たとえファンタジーであれ、他人がどうこう言おうと認めない限りは自然とした行動ということになる。自分がいくらかわいいと分かってもいいし、他人からこいつやってんなぁと思われたとしても自分で認めないという姿勢を崩さない人にとても好感が持てる。それは素の行動というか、自分から湧き出た芯のある行動だからだ。対して、あざとい行動を認めてしまうと、途端にそれは技術となり、知識となる。そういった行動のすべては自分の行動ではなく他者から影響を受けた行動になってしまう。それは、相手に私の行動は嘘ですよと悪気なく言う行動と同義なのだ。

そして、この認識は世間一般の人達に伝達されていないから、容易に好きなタイプであざとい人なんて言うもんなら、あぁ~○○ね。△△ね。とか芸能人の名前を出されることになる恐れがあるので死んでもそんなことは口に出せない。彼女らは自分にとって、駆け引き上手な計算高い人であって、あざとくはない。真のあざとさとは小悪魔的な、なんというか敵か味方かブラックレンジャー的な立ち位置でなければいけない。

何故こんな話をしているかというと、自分のいわゆる推しといわれる人たちが自分の中のあざとい像に一致していることに気づいたからだ。NiziUのリクちゃんはもちろん、日向坂の渡邉美穂やみーぱんとか。ああいう、ギリギリ悟られないと思って悟られちゃってるけど隠し続けるかんじの愛らしい感じ。一体どっちが騙されているのだろう感がとてつもなくいいものなんじゃないか。そのチクチク感こそあざとさの源なんじゃないかな(`・ω・´))ノ;)

 

リモート飲み会は罠。

自分は飲み会というものが好きな方だ。目上の人と話すのは苦手だが、苦手なだけで嫌いではない。その理由は、飲み会というのは会というだけあって複数人いることになる。そうすると一人くらい話していなくても気にならないものだ。トーク番組やラジオが好きな自分にとっては、人の話を聞くというのは苦ではない。ただ、例外として、その人の話が面白くないという場合がある。しかし、この場合も大体の場合同じようにつまらなそうにしている人がいることが多い。自分は、その人に話しかけることによって別世界を作り上げることで飲み会の主軸となっている会話とは別の会話を創生することによりこの状況を緊急脱出し秘密の花園を手に入れるようにしている。ここで気を付けなければいけないことはあまり盛り上がらないことだ。盛り上がりすぎると、ただ盛り上がることが好きな主軸の「何の話?」によって、すべてが破滅に向かい会話の残骸は主軸へと吸収され、彼らのバカ騒ぎの養分となる。こうなった場合二度と秘密の花園を手に入れる機会は失われる。けれども、幾度の飲み会を通して、盛り上がり始めたのを察知した主軸をこちらもまた察知することで、テンションを調節し、時に高ぶったテンションを真剣なトーンというオブラートに包むことで、つまらなそうな会話にしたて上げることも出来るようになってきた。つまり、基本的には、飲み会は面白いものである。

 

しかしながら、これを阻むものが現れた。それは、コロナ軍が送り込んできた刺客「リモート飲み会」である。この飲み会、全てが悪い飲み会ではないのだが、前述の通りつまらない人が主軸を握った時が最悪なのです。リモート飲み会において、秘密の花園作成は非常に困難だ。なぜなら、皆等しく同じボリュームで全員の会話が聞こえ、こっそりと少人数で別の話をすることが不可能だからだ。少人数こそこそ話を生業としている自分にとっては非常につらい状況だ。そういうことで、つまらない人が主軸を担ってしまった場合に半強制的にそのつまらない話題が続いてしまう。そうなると聞いてられない。さらに言えば、途中退席もできないし、その人が飲み会を終了するまでその会は終わらない。概して、そういったつまらない人は、そもそも空気が読めないので飲み会を終了させるのもへたくそだ。家にいながら投獄されているような時間を過ごす羽目になってしまう。さらにさらに、いうとリーダーやトップという人は、学校であれなんであれ一番の権力者(と思い込んでいる奴)なので、人をいじってしか笑いが取れない。そういう芸人の真似事みたいなくそつまらん茶番に付き合ってる暇があるならTverのバラエティーの欄をクリックして、今すぐまだ見ていない地方のバラエティー番組を見た方がましだと思う。

 

そうか、そうすればいいのかと、いつもは見ない徹子の部屋をカメラ越しにこっそりと視聴する。そこにはいじりもいじられもないが、杉村太蔵が徹子さんを笑わせ徹子さんが杉村太蔵を笑わせていた。徹子さんが部屋にいるなら、ZOOMをつないでリモート飲み会に参加してもらいたいと思った。

映画館の赤い椅子

おはようございます。今回から、志向を変えてみます。

主な理由といたしまして、早起きしたいから書くのではなく、書きたいから書くという方に考え方をシフトしたからです。よって早起きでもなければ、30分の分量でない時も多くあると思いますが、その分どんな短文であれ毎日ブログを更新するという目標へと切り替えていきたいと思います。また、今までは、主に自分の内的なものフォーカスを当てて自己反省を込めて書く文章が多かったのですが今回からは、外的な出来事にフォーカスを当てていく文章に変更したいと思ったりしておりますが、どうなるかは未定です。

 

さて、そんなこんなで自分は映画館に行くのが好きだ。そもそも、映画自体に関しては世の中が自粛期間に突入したタイミングで毎日映画を1本見るということをし始めてから、ハマりつつあるわけですが、実際のところ過去の作品には今まで興味がなかった。映画館で観れない過去の名作より映画館で観れる現在の駄作というくらいに映画館に行くという行為がたまらなく好きな性分で、もっと言えば、大手の巨大なスクリーンと座ることによって始めて椅子の形を成すタイプの座席をもつタイプの映画館ではなく、渋谷でいえば、シネクイントやユーロスペース、新宿でいえば、シネマカリテのような、小さいスクリーンに、ちょっと高級のあるしかしながら使い古されけば立った赤い椅子を持つ映画館だとなおよい。そういった映画館で上映されるのは、アクション多めのおバカ映画ではなく、哲学的な要素を多く含む堅苦しいヒューマンドラマが多い。けれども、自分はさして頭もよくないので往々にしてその内容を理解していことがある。昨日も「ハチドリ」を観てきたが、作品トータルとしては、理解したつもりでEDにはしっかりと涙を流すことが出来たが、ストーリー中盤で両隣に座る二人が泣き出したのだが、どこが涙を流すポイントなのか全く理解が出来なかった。単に理解力というよりも人生経験の差によるものかもしれないけれど。

そうそう、隣といえば、コロナ対策によって一席空けて座席を座るようになっている。それによって、ひじ掛けに両肘を掛けて映画を観れることは、コロナ期間中に起こったうれしい出来事の一つかもしれない。それに加えてカップルが、「え、私たちも一つ開けなきゃダメかなあ?」「いいんじゃないかな?」「いっか!」みたいな会話もとても微笑ましい。なぜ、微笑ましく感じれるかというとおそらくそれは、赤い椅子の映画館に行くタイプの落ち着いたカップルだからだろう、これが、大手の「ランボー」のスクリーンで行われていると途端に怒りを感じるかもしれない。それほど場の雰囲気というのは大事なのだろう。

ぜひこういった赤い椅子のタイプの映画館に行ったことがない人は行ってみてほしい。こういった映画館に行くのは、自分を少し背伸びさせて完璧に雰囲気酔いさせるためなのだが、それはそれで自分を認めて、「今日は雰囲気酔いしにきたのだ!」と楽しむべきだろう。それに、学校でしか聞かないチャイムの音が聞こえるのもノスタルジーを感じさせてこれまた乙なものだ。

キーンコーンカーンコーン。

新しいブログ形式始めました。

思込!不向サラリーマンの巻

おはようございます。

また1週間空いてるわ。どうしましょ。

そんなこんなで、この1週間について少し。やっぱ好きなことをやりたくてこれをやってるんだからもっと自由に生きていこう。窮屈に生きるんで良ければ、そもそも普通の会社に入ってそこそこの仕事をすればいい。この場所にいることの意味をもう一度考え直すべきだなと思う。そのために好きなことを全力でというありきたりなオチになってしまうのはご愛敬というものだろう。

そして、思う。世の中には「サラリーマンに向いていない」という人がいるが、そういう人はむしろ向いている。なぜなら、そういう人は、自己分析ができていないから。いや、この言い方は正しくない。やりたいことが見つかっていないから。やりたいことが見つかっている人は否が応でもそのやりたいことに向かって突っ走るものだ。もしくは、それが見つかっているにも関わらずそれらをしないのであれば、もっと向いてない。ただの口先、自分は変異なもの自慢をしたいだけの糞大人だ。いずれ、夢を見つけることができたときようやく「サラリーマンに向いていない」人になれるのだろうと思う。

「サラリーマンに向いていない」というのは、人に使われるのが向いていないということだろうか?だとしたらそもそもそんな人間はいない。皆がどんな状況であれ人に使われている。社長であっても、裏を返せば部下に使われているし、会社の利用者によって使われる。フリーランスだってあまり変わらない。それに気付いていないというのならば、起業とかフリーになったところで何の意味もない。結局のところ、この世の中に、「サラリーマンに向いていない」人などはいないのだ。

そこにいるのは、「サラリーマンに向いていない」と思い込んでいる人だ。この思い込みは非常に面倒くさい。できることなら、この思い込みを捨てて普通の社会に戻るべきだ。一度その沼に足を入れれば二度と出てこれなくなる。これは、どこまでいってもかっこ悪いことだ。それでもやろうと思うなら、「サラリーマンに向いていない」道を突き進むべきだろう。

そろそろ結論めいたことを言うと、「サラリーマンに向いていない」ということで、サラリーマンの道を踏み外すのはもったいない。それに加えて、間近でみる、「サラリーマンに向いていない」という人が目指すような人は、「サラリーマンに向いていない」からではなくサラリーマンよりもやりたいことがあふれ出ている人達が多い。やりたくないことから逃げて選ぶにはリスクが大きいが、やりたいことを追うときにはリスクなど関係ない。幻影を見ず、現実を見つめ、幻想を見る。

一度、足を踏みぬいた自分はそうするしかない。

というこれまた、思い込み。人生、思い込みの積み重ね。

全能!?無能ピサの巻

お早うございます。
いつになったら梅雨が明けるのでしょうか?
そして、つくづく自分には睡眠が8時間必要ということを痛感する今日この頃でございます。
早寝早起きをしなければ。

それで、ピザというのはなんなのでしょうね。
ピザって嫌いな人がいない代表的料理ですよね。カレーだと辛いからとか、ハンバーグは肉肉しいのが好きじゃないとか嫌いな人が一定数いますが、ピザってのは嫌いな人がいないよね。

っていう風な扱われ方をしているピザが自分は苦手だ。そもそも、大分前に書いたカレーが嫌いというのはカレーが人として嫌いなのであって味は嫌いではないが、ピザはそもそも食事としてもあまり好きではない。
そもそもピザが好きってなんだよと思ってしまう。
もっというとピザって分類でいうとあれはなに?
おそらくパンの仲間に分類されることになるのだろう。でも、そうするとおかしくないか?
パンを夜ご飯として食べるという概念がまずおかしくないか?結局、夜ご飯でクロワッサン食べてるのとそんなに変わらないということでしょ。なのに、なんであんなにも皆嬉しがってピザを食べるのか。
そして、今思ったけどピザパンもあるよね?じゃあピザって本格的になんなんだろうか。
ピザというのは、そんなに味のパターンないのにメニュー量が多いのも腹立つ。大抵チーズ味か、甘い味かの二択。それをあんなにありがたがってどれにする?なんて会話をしなきゃいけないのも面倒くさい。
食感もなんか、ご飯食べてる感じの食感じゃなくてなんか、ただ食事をこなしてる感じがして趣深くないのも尺にさわる。
味も冷静に食べてみたらそんなに美味しくもない。

だから言いたい。
ピザは嫌いな人もいないけど、好きな人もそんないない。ピザのことが一番好きっていってるひとあんまみたことない。聞かれたら好きくらいの感じ。
こういう人間が一番つまらない。
ピザ人間にはなりたくないねというお話。

糞塵!投稿ファッキンの巻!

おはようございます。

今日そもそも結構起きてからたってるのですが、とりあえず一呼吸したら、何かしらを書こうと思ってて、大筋書くことを決めてたんですけど、ちょっと書くことを変えようかなって思います。

というか、もうストレス発散以外の何物でもないです。

今さっき、ある俳優さんが自殺(?)したというニュースが流れまして、それ自体はとても悲しいニュースではあるし、悲しむべき人が悲しむニュースではあるのだろうと思います。

そして、自分の前提として、自分死に対して興味が薄いといいますか。自分が気にかけていない人がどうなっていてもそれはほぼ死んでいるようなものだと思ってる。だから、今回のニュースを見た時も、あーそっか。という感じでした。でもそれは、無関心とかではなく、なぜ死んだかがわからないからなんですよ。それは過去のテラハの出演者のようなSNSの誹謗中傷による心理的なものかもしれないし、何かしらの事件に巻き込まれて仕方なくなのかもしれないし、それは今のところ誰にも分らない。少なくとも自分はわからないわけじゃないですか。そんなものに対して、コメントするのは時期尚早ではないかと思うわけです。

それなのに、SNSでは「○○死亡マジか」「○○なんで?」とかそういうツイートで溢れかえってるわけです。なんだかそれがすごく気持ち悪く感じてしまって、ついついブログを書いてしまっているわけです。この気持ち悪さの原因は、直感的なものとすれば、お前今までその人についてツイートしてたか?ということだ。その人の大ファンで、いや、大ファンとは言わずとも、その人がドラマに出ていればチャンネルを変えないくらいでもいい、そういう人たちが今回の件を悲しむのは非常に理解できるし、それの放出先としてSNSを利用するのは自分がこのブログを書くのと同じようなものなので個人的には腑に落ちる。しかしながら、バカがただ流れてきたニュースに対して、ボケーっと言葉を吐くほど簡単な問題なのか?それがいったい何になるのかが分からない。人が死んだから注目するってのはあまりにも浅はかではないか?死ぬということは誰にだって出来るし、むしろいつかは誰だって死ぬ。そんなことを本当に注目するべきなのか?その前に彼がした様々な仕事の中でもっと注目するべき仕事があったはずだ。あの演技や彼の本などは素晴らしいものだった。それに対しては、日ごろ見向きもせず、無言を貫き通した人々が息を吸うのと同じように簡単な死ぬというこういとをした彼に対して注目をすることは非常に浅はかで気味が悪く自分には映った。本当にただそれだけの話。今後、判明していって、SNS上での批判によるものか?みたいになったときに、SNSでの批判をするのをやめようという人達にさきに言っておきたいのは、あなた達のそのツイートは批判をした人と同様に醜いツイートだということを自覚したほうがいい。

 

話がそれるかもしれないけれど、SNSでの批判が悪いという論調もあるが、それが本物の怒りの感情であれば、「○○マジか」の投稿よりはましだと思う。それは、投稿者が本当に誰かに伝えたい感情だから。嘘をつかずに、喜怒哀楽を真剣に表出し、各々の感情をしっかり考えて、SNS上に表明するべきだと思う。

 

そんな真剣にSNSやってねえしってことなんだろうな。本当にSNSに向いていないのは自分ということを理解しつつここで結びとさせていただきます。

間違!電話ハウアバウトの巻

おはようございます。
お久しぶりをしてから三日間連続投稿。
生活リズムに食い込むことの大切さを身に染みています。慣れるまで慣らすことが大切ですね。

さて、そんな中、昨日はどうすればよかったんだろうということが起きまして、その話をしようと思います。
夕方くらいに少し眠いなぁなんてまどろんでいるときに、ふとスマホを見ると見慣れぬ番号からの着信履歴が、御仕事の電話かはたまた、支払い関連?と思って折り返しの電話をすることにしました。
「もしもし、弟さん?」電話口から聞こえてきたのは耳慣れぬお婆ちゃんの声。一瞬、姉が結婚したので相手側の親族かとも思いましたが、なんとなく電話口から相手もピンと来ていない感じだったので、「先ほど、御電話いただいたようでしたが。」と対応することに。それに対して、相手は、「あらー、間違って電話したみたい!4930の9をね一つ上の6にしちゃったみたいなの。」。
「そうなんですかー。」
「ごめんなさいねー。」
「全然気にしないでください。」
「本当は木元さんに電話しようと思ってたのよー。木元さんは4930。あなたは4630なのよー。」
一応お伝えすると電話番号も、名前も変えさせていただいている。そう、問題はそこなのだ。
私は、見ず知らずの人の番号を知ってしまったのだ。こんな世の中だし、もし、自分が悪い大人だったら悪用され放題の情報だ。なので、お婆ちゃんに「名前とかはあんまり言わない方がいいですよー。」とおせっかいをするべきかと頭をフル回転させた。相も変わらず、お婆ちゃんは「ごめんなさいねー。下4桁は一緒なのよ。木元さんじゃないのね。」と丁寧に情報を上塗りしている。

しかし、この電話でおせっかいをすることはなかった。喉くらいまではいきかけたのだが、間違い電話などそうそうないことにたいして、老い先短いお婆ちゃんが一々電話するときに気を付けるようになることは何だか申し訳ないような気がした。
色々気にしすぎなきもするがそんなもんだろう。

メモ
丸いお皿の上の木くずを燃やすのは初盆の送り火